あなたと私の8週間。そして、静かな別れ

40歳で自然妊娠。 病院で心拍が確認され、自分とお腹の赤ちゃんへのプレゼントとして、CDを買って帰った。 そのわずか数日後に、私は入院することになる。 稽留流産——音のない別れの始まりだった。


「不妊」ってひと言に言っても、その原因は本当にさまざまある。

  • 卵子が育たない。
  • 受精卵ができない。
  • 着床しない。
  • 着床してもお腹の中で発育できない。

私の場合は、「着床しても育たない」だった。 実際、過去には3回着床している。 でも、その3回がすべて稽留流産となった。

母体に自覚症状がないまま、胎児が子宮の中で命を落とす。 稽留流産のほとんどは妊娠12週くらいまでに起きる。

その頃はまだお腹も大きくなっていないし、 私の場合はつわりというものもなかったから、 そもそも妊娠した実感すらなかったと言える。

それでも、胎児の心拍は確認できているし、 エコー検査をすれば、 妊娠ガイドブックなどで見かけた赤ちゃんの姿が映っていた。


1回目の稽留流産は40歳のとき。自然妊娠だった。

当時は東京に住んでいて、仕事の最中に出血が始まった。 トイレに行って、ギョッとした。 午後には仕事を終え、すぐに産婦人科へ向かった。 そこは数日前に初診を受けたばかりの場所で、 「これからお世話になります」と挨拶をしたばかりだった。

診察室に通され、診察台に上がると、 エコーを見ながら、先生が硬い表情で言った。

「心拍がどんどん低下しているね。このまま入院ね。いい?」

自宅に帰ることすら許されなかった。 主人に電話で事情を伝えると、 入院に必要なものを簡単な袋に詰めて持ってきてくれた。

彼が到着してから再度エコー検査が行われ、 胎児の心臓がすでに止まっていることが確認された。

覚悟はできていた。 希望を持ちたかったけれど、 希望を抱いて叶わなかった時の無念の方が辛いとわかっていたから。

病院に着いて、先生の固い表情を見たときに、「希望は持たない」と心を決めた。


診察室を出て、カウンセリングルームへ。 処置について説明を受けた。 掻爬手術が必要とのこと。 早い方が良いので、翌日に行うことになった。

私は淡々と話を聞いていた。 ただ、一つだけ質問した。

「掻爬手術をしても、再び妊娠することはできますか?」

答えはYES。 掻爬手術から6ヶ月以上経てば、妊娠しても問題ないとのことだった。

主人には心配をかけたくなくて、気丈に振る舞っていた。 でも、カウンセリングルームを出て立ち上がった瞬間、 立ちくらみを起こし、車椅子で病室に戻ることになった。

頭は冷静を保とうとしていたけれど、ココロとカラダは、ちゃんと本音を知っていた。


入院は大部屋だった。 同室には、出産を終えたばかりの幸せそうな女性たちばかり。

こんなとき「なんで私だけが…」と悲劇のヒロインになるのが定番なのかもしれないが、私は意外にも冷静に現実を俯瞰していた。

病院のベッドで横になりながら、「また次があるさ!」と、自分を鼓舞した。

とはいえ、さすがに大部屋では寝付けなかった。 消灯後、主人が持ってきてくれた宿泊セットの袋を探ると、 下着や洗面用具のほかに、何かが入っていた。

—— CDだった。

最近、私が毎日のように聴いていた胎教クラシック。 陽性判定を受けた直後に購入したものだった。

妊娠8週の赤ちゃんは、まだ1.2cmほどの大きさ。 聴覚器官は形成されていない。 それでも、芽生えた命に美しい音楽を届けたくて一日中流していた。

CDを手に取った瞬間、熱い涙が頬を伝った。


【次回予告】 次回は、2度目の稽留流産について。 その時、私はアメリカに住まいを移し、アメリカで治療を続けていた。 つかみかけた命の灯火が、また静かに消えた、その記録。

More Posts

メールマガジン登録