悲しみも痛みも抱えたまま、それでも未来を迎えに行く。
14週で小さな命を失った。
心も体も、すっかり折れていた。
来年には50歳になる。
もう、潮時かもしれない──
そんな思いが、何度もよぎった。
それでも。
私は、自分自身をあきらめたくなかった。
未来を迎えに行くために、
静かに、でも確かに、また一歩を踏み出した。
◆ 年齢と揺らぐ気持ち
掻爬手術は、これで3回目だった。
プロセスは、もう把握していた。
それでも、妊娠14週でのお別れは、
これまで以上に、心に深い傷を残した。
私をいちばん落ち込ませたのは、
やはり「年齢」という、冷たく揺るがない数字だった。
来年、私は50歳になる。
年齢は、1つずつ等間隔に重ねていくものだ。
49歳の今日と、50歳の明日で、
何かが劇的に変わるわけではない。
それでも、40代から50代へ移行することは──
まるで、別の次元に行ってしまうような感覚だった。
50代の妊活など、ほとんど聞いたことがない。
著名人でいえば、政治家の野田聖子さん、
ラジオパーソナリティの坂上みきさん。
海外では、ジャネット・ジャクソン。
彼女たちが50代で出産した事実は、
奇跡に近いものとして報道されている。
それも当然だ。
医学的にも、女性の生殖能力は35歳を過ぎると急速に低下し、
50歳前後では自然妊娠の確率はほぼゼロに近いと言われている。
体外受精(IVF)でも、50歳での成功例は極めて稀だ。
今の日本では、
40代の妊活ですら、公言しにくい空気がある。
ましてや、50代で子どもを産もうとすることは、
社会からは賛否以前に、
「想定外」として扱われる。
アンチ高齢出産のコメントを見るたび、
心がぐらつくことがあった。
「もうやめたほうがいいんじゃないか」
そんな声が、自分の内側からさえ、聞こえてきた。
◆ それでも、私が妊活を続けた理由
私がここまで妊活にしがみついて来られたのは、
ただ「母になりたい」という夢だけではなかった。
それ以外にも──
- まだ受精卵が残っていること
- そして、着床した経験があること
この2つが、私を支え続けていた。
「もしかしたら、次こそは」
そんな淡い希望を、どうしても手放せなかった。
◆ 不妊治療の引き際は、誰にも決められない
肉体的、精神的、経済的。
限界まで粘れば粘るほど、
結果が出なかったときのダメージは大きくなる。
まるで、ギャンブルのようだと思った。
40代の頃は、林真理子さんやジャガー横田さんの年齢を目標にしていた。
それは、もうとうに超えている。
後ろ髪を引かれながらも、
私は思った。
50歳という節目は、幕引きに最適かもしれない。
◆ だからこそ、最後に確かめたかった。
私は、なぜ産めないのか。
3度の着床。
そして、3度の稽留流産。
ここまでくると、単なる偶然ではないかもしれない。
もしかして、これは「不育症」なのではないか?
不育症とは、
「2回以上の流産や死産を繰り返す場合に診断される疾患」で、
原因は子宮の形態異常、ホルモン異常、血栓傾向、免疫異常など多岐にわたる。
(参考:日本産科婦人科学会、不育症診療ガイドライン)
私は、ニューヨークで「ベスト」と評される不育症治療の専門医にコンタクトを取った。
◆ あとがき
14週で小さな命を失ったあと、
私は何度も、歩き出す理由を探していました。
50歳目前。
周囲の声も、常識も、自分自身の心の声さえも、
時には大きな壁に見えました。
それでも、
小さな希望を手放すことはできなかった。
◆ 今の私の視点
未来は、ただ待っているだけではやってこない。
どれだけ傷ついても、
どれだけ遠回りしても、
視点と戦略を変える冷静さと
一歩を踏み出す勇気が、
未来を迎えに行く力になる。
常識の枠も、年齢の壁も、
私にはただの背景にすぎない。
これからも私は、
自分の脚本を、自分の手で書き続けていきたいと思う。
【次回予告】
次回は、
未来を迎えに行くために踏み出した、
「不育症検査」への挑戦を綴る。