3度目の流産。それでもまだ“奇跡”を期待していた。
妊娠検査薬ってあるでしょ。
おしっこをかけて1分待つ。2本のラインが出たら陽性。1本なら陰性。
不妊治療で体外受精をした場合、受精卵の移植からおよそ1週間後にクリニックで妊娠判定がある。
だけど、それが待ちきれず、市販の妊娠検査薬を使って自宅でフライングする人は多い。
芸能人がブログでこう書いていた。
「はじめは1本。陰性だったからゴミ箱に捨てちゃったのよ。でも数分後に改めて見たら2本になっていたのー🎵」
え? もしかして私も……?
陰性を示す検査薬を、何度、未練がましくゴミ箱から取り出したことだろう。
「もう充分。これで最後にしよう」
……何度もそう思った。
でもその一方で、やめる理由が見つけられなかった。
いや、もとい。
やめる理由は、いくらでもあった。
- 自己注射がつらい
- 薬の影響で体がむくむ
- 経済的に大きな負担
- 年齢。私はその時40代。友人はすでに子どもの就職活動の話をしていた
やめられなかったのは、心の底で“奇跡”を期待していたから。
私は、いとうゆき。
栄養学博士であり、NY在住の母でもある。
いま、55歳。双子を育てている。
ひとりは私が自分で出産した娘。
もうひとりは、代理母に託してこの世に生まれてきた娘。
命のかたちも、家族のかたちも、方法はひとつじゃない。
私は2人の娘から、「多様な愛でつむぐ人生」を学んでいる。
後悔は、微塵もない。
でも、ここに来るまでには長くて長くて、重たい道のりがあった。
- 不妊治療歴は10年以上
- 受精卵の移植は20回を超えた
- 自然妊娠と3回の流産も経験した
3回目の流産は、もっともショッキングだった。
妊婦検診で、14週まで問題なく育っていた胎児の心拍が、突然、聞こえなくなっていた。胎児が子宮の中でなくなっているにも関わらず、出血や腹痛などの自覚症状が一切ない稽留流産だった。
平静をよそおったものの、診察台から降りる時には腰が抜けて立つことができなかった。
診察室に入る前は、
「今日はベイビーのどんな姿が見られるかな」
そんな幸せモード全開だった。
でも診察後、私は看護師さんたちに両脇を抱えられ、
血の気の引いた土色の顔で、診察室を出た。
この流産は、2019年5月。今からちょうど6年前のことだった。
「妊娠・出産できなければ、母にはなれない」
そう思っていた。
でも……それって、本当?
転機は、主人の会社が導入した【妊活サポート制度】だった。
そこには、不妊治療費の一部負担のほか、養子縁組と代理母に対する経済支援が含まれていた。
養子縁組? 代理母?
それまで、私の中には存在しなかった選択肢。
私は改めて、自分に問いかけた。
妊娠がしたいの? 出産がしたいの?
家族を増やしたい? 子供を育てたい?
そして出た答えは、
「私は、子供を育てたい」だった。
答えが出たあとは早かった。
- 養子を迎えるために、養子縁組エージェンシーに登録
- 代理母はまだイメージしにくかったけど、念のためそちらのエージェンシーにも登録
そのとき、私の中で何かが静かに壊れた。
無念? 絶望?
……ちがう。希望だった。
10年以上にわたる不妊治療でガチガチに固められた執念のようなものが、
温かい希望の光で、すーっと溶けていくような感覚。
「選択肢がある」
そう気づいた瞬間から、
私の人生は、再起動をはじめた。
私は、選び直した。
母になるという未来を、“妊娠”とは違う方法で。
現実は、面白い。
やがて私は代理母を通して娘を得ることになる。
そして、もうひとりの娘は、私が52歳で自ら生を授けた。
52歳の私が抱きしめたふたつの命は、
3度目の流産で手術台に横たわったあの日には、想像できなかった未来だった。
このnoteでは、そんな私の
「妊活の、その先で」の物語を綴っていきます。
- 提供卵子、提供精子のこと
- 代理母の現実と、出産の瞬間
- 養子縁組という選択
- 難病のある息子を養子に出した経験
- 高齢出産に備えて心がけたこと
- アメリカでの双子育児のリアル
書くのは、簡単じゃない。
でも、誰かがこれを読むことで、
「私にも、選択肢がある」と思えるなら
「自分の人生は自分で決める」と思えるなら
私は、書こうと思う。
愛を勇気に変えて。
📖 連載タイトル:『妊活の、その先で。』
📍Instagram → @real.mother.by.choice
次回は、「初めての稽留流産」について。
あのときの“静かな別れ”を、
今ならようやく言葉にできると思うの。
「母になる」って方法は、妊娠だけじゃない。
わたしの物語が、誰かの再出発になりますように。